監督紹介

img48041418c42e4 神山征二郎(こうやませいじろう)

「誰ですか?」「川柳の人で、戦争中に獄死した石川県の人で…」私は劇映画の専門家なので、まず戦中と聞いて、費用のかさむ企画をもちかけられたなと思っ た。「ドキュメンタリーでやってみたいんです。」と平野さん。「なるほど、そういうことですか。ではお手元の資料など送って下さい。私にできるかどうか検 討させて貰います。」

…13年前に81歳で亡くなった父の遺品に一枚の色紙がある。「日支の風雲急を告ぐ昭和十年作、清楓(父常雄号名)、三十六峰静かな寝いき、夢を破るなほ ととぎす」と揮毫されている。「南部みちのくかなしいところ、駒も娘も売るところ」という作で全国誌の一席を獲得したこともある。昭和10年は日本帝国主 義の総仕上げとばかり、軍国日本はもう誰の手にも止められない暴走状態にあった。先述の一首はそのときの作だ。父は鶴彬のようには生きられなかったし、才 能の者ではなかったかもしれないが『同じ』だと思った。

ドキュメンタリーという手法で私にどれだけのことができるのか一抹の不安がぬぐいきれないが、やってみる価値のある仕事だと思っている。

プロフィール

岐阜県岐阜市に生まれる。1963年新藤兼人監督が主宰する「近代映画協会」に参加。1971年「鯉のいる村」で監督デビュー。「ハチ公物語」「ひめゆり の塔」「大河の一滴」などのメジャーヒット作品から、「群上一揆」など市民参加の映画製作までヒューマニズムあふれる作品を次々と発表し、今日の日本映画 をささえる監督のひとりである。映画九条の会・代表委員。


<創作ノート>

監督  神山征二郎

 少年喜多一二(きた かつじ)は生れてまもなく子供のなかった叔父夫妻の養子となった。同じ町内に実父母兄妹がいたが、八歳の時実父と死別、やがて再婚した母とも遠く離れくらすことになった。やはり孤独は人一倍であったろうと想像できる。
少年は詩を愛し、石川啄木に憧れた。目と鼻の先に日本海があり、海を見ては詩を書いた。

暴風と海との恋を見ましたか

早熟な少年詩人に成長していった。文学に夢中になった。しかし、少年の生きていたのは戦争の時代だった。暗く重い時代だった。その時代を生きた文芸者の多くが傾倒していったプロレタリア文学に彼もまた目覚めていった。
「弱き者を見捨るな」
と活動をした。青年になったからだ。だが、暗黒の歯車は止らず、第二次世界大戦が現実のものとなりつつあった。
「その道を行くべからず」
と両手を拡げたが
「邪魔者、そこをのけ」
と権力は力ずくに出た。
「断じて退かず」と詩人。悲劇は必然であった。詩人の名は〝鶴彬〟。
だれよりも鮮明に時代の行末が見えてしまった、愛すべき詩人、その心の軌跡を追いかけてみようと思う。

ドキュメンタリー・ドラマの様式をとるから、時間と空間をたやすく飛び越え、簡略化した映像で、かえって真実に迫る、という手法に挑戦してみたい。例えば現在の町並をカスリ着流しの鶴彬が歩いている─―といった映像の展開である。

貴重な浄財によって製作が実現することになりました。ご関係の各位に感謝しつつ、完成にむかって一層のご協力をお願い申し上げます。